本サイトは、「三十糎艦船連合呉支部」の写真館別館である。 写真館などと称しているが、管理人の下手な写真を並べただけのコーナーである。 内容は旧海軍に関するものが多いが、これは呉の近現代史に海軍が多くかかわっているためである。
尚、これらは、少なくとも「指定された時間内」であれば「一般人」が「事前の許可なく」して立ち入ることのできる場所で撮影している。 但し、知らずに私有地や立入禁止区域で撮影してしまった可能性もあるので、現地に行かれる場合は注意されたい。
この地区は、旧二川町にあたる。 1902年(明治35年)4月1日に安芸郡吉浦町の川原石・両城地区が分離して「二川町」が設置された。 これは呉市制実施の一過程で、同年10月1日には、和庄町・荘山田村・宮原村・二川町が合併して呉市が誕生した。 二川町の町名は、二河川の本流と支流にできた「二ツ原」によるものとされる。
尚、三条三丁目および三条四丁目は、旧荘山田村の地内であるが、便宜上ここに含めた。
この地区は、旧賀茂郡阿賀町にあたる。 阿賀町は1928年(昭和3年)4月1日に、吉浦町・警固屋町とともに呉市に合併された。 阿賀の地名は、賀茂郡香津(かのつ)が「かがあ」に転訛したものとも、漁村の頭目の下に属した者達をいう「あが」「あご」にちなむともいう。
この地区は旧安芸郡天応町にあたる。 天応町は1956年(昭和31年)10月1日に、昭和村・賀茂郡郷原村とともに呉市に合併された。 天応の地名は天応山によるとされる。 この山の名は、神武天皇東征の折、安芸国埃宮に御駐留のとき、この地に臨まれた古事から、山上に山頂に「天皇社(天王社)」が祀られ、「天皇山(天王山)」と呼ばれるようになった。 しかしながら、畏れ多いということで「天応山」と改められたという。
この地区は、旧賀茂郡広村にあたる。 広村は1941年(昭和16年)4月21日に、仁方町とともに呉市に合併された。 広の地名は、広々とした土地を祝福して称したものとも、平地の最もくびれた所を称したものともいう。
この地区は、旧安芸郡宮原村にあたる。 宮原村は1902年(明治35年)10月1日に、和庄町・荘山田村・二川町と合併し呉市となった。 宮原の地名は、神武天皇駐在の伝説にちなむとも、地形や農業に関係するともいう。
この地区は旧豊田郡安浦町にあたる。 安浦町は2005年(平成17年)3月20日に、音戸町・蒲刈町・倉橋町・豊浜町・豊町とともに呉市に合併された。 安浦の地名は、1944年(昭和19年)1月1日、三津口町・内海町・野路村が合併し、安浦町が発足した際に、当時の広島県知事横山助成が「浦安かれ」の意を含めて命名したものである。
この地区は旧安芸郡吉浦町にあたる。 吉浦町は1928年(昭和3年)4月1日に、阿賀町・警固屋町とともに呉市に合併された。 吉浦の地名は、芦が繁茂していたことから「あし浦」と呼ばれていたが、「あし」は「悪」に通ずることから「吉」にかえたという。 また豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して当地に立ち寄り、当港を賞して自らの一字をとらせたという話も伝わる。
この地区は旧安芸郡音戸町にあたる。 音戸町は2005年(平成17年)3月20日に、蒲刈町・倉橋町・安浦町・豊浜町・豊町とともに呉市に合併された。 音戸は「隠渡」とも書く。 迫門の口に立つ平清盛の石塔を御塔と称したことにちなむとも、「隠れたる門云義」ともいう。
芸予諸島には倉橋島も含まれるが、ここでは構成上、下蒲刈町・蒲刈町・豊浜町・豊町の4地区とする。 下蒲刈町は2003年(平成15年)4月1日に呉市に合併された。 蒲刈町・豊浜町・豊町は2005年(平成17年)3月20日に、倉橋町・音戸町・安浦町とともに呉市に合併された。
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