明治期の海軍工廠の職工は極めて流動的で、入退廠者が多く、有技職工は国内の工場を渡り歩く状態であった。
1896年(明治29年)定期職工条令を定め、一定期間を約して勤めた者への賞金を支給するなどの職工の定着を図る対策が講じられた。
第一次世界大戦終了後に、職工の自然退職分を見習い工で補充する方針に変わり、1918年(大正7年)にこれまでの見真似による技術習得を改めて学術と実業の教育が行われることとなり、教習所が開設された。
1918年(大正7年)10月 | 呉工廠に職工教習所開設。 教育期間2年。 |
1922年(大正11年) | 高等小学校卒業の資格に改められる。 |
1924年(大正13年) | 普通科2年、高等科2年の課程となる。 |
1925年(大正14年)4月 | 中央校舎竣工。 |
1925年(大正14年)5月1日 | 中央校舎での授業開始。 |
1927年(昭和2年)9月30日 | 見習工の明心寮が二河通に竣工。 |
1928年(昭和3年) | 本科3年、専修科1年の課程となる。 |
1930年(昭和5年) | 本科3年、補習科1年の課程となる。 |
1940年(昭和15年)4月5日 | 工員養成所教育規程(達八一)施行。 見習科、補習科、選科、青年科を置く。 呉海軍工廠工員養成所と改称。 |
1940年(昭和15年)4月20日 | 坪の内に工員養成所移転。 |
1940年(昭和15年)11月24日 | 忠誠寮開寮。 |
1943年(昭和18年)4月16日 | 養成所所歌発表演奏会。 |
1944年(昭和19年)7月14日 | 補習科の授業休止。 |
1944年(昭和19年)8月1日 | 当分の間養成工員を採用せずとの通達。 |
1944年(昭和19年)9月11日 | 校舎が女子挺身隊の宿舎となる。 |
1945年(昭和20年)1月 | 宮原通の県立第二中学校(現宮原高校)の施設を借り受け疎開。 工員養成所は4月から再開と決定。 |
1945年(昭和20年)5月2日 | 借受校舎で補習科授業開始。 |
1945年(昭和20年)6月22日 | 空襲により忠誠寮焼失。 |
1945年(昭和20年)7月1日 | 坪内校舎焼失。 |
1945年(昭和20年)7月31日 | 新見習生卒業。 以後実質的に閉鎖。 |
1919年(大正8年)頃の周辺地図を以下に示す。 現在では淀川製鋼所呉工場の敷地となっている。
終戦時の周辺地図を以下に示す。 国道487号線の坪ノ内交差点から宮原13丁目交差点沿いの海側空き地が該当する。 尚、地図中で「日発宮原変電所」と示されている場所が、現在の中国電力宮原変電所である。