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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

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広青年教育センターの蘇鉄−呉市天然記念物

説明板より引用

このソテツは、広長浜にある専徳寺(室町時代中期創建)の境内に植えられていた雌雄一対のソテツの雄株と伝えられています。
明治42(1909)年、広村公会堂(現在の広小学校付近)が建設されたとき、記念樹として専徳寺から雄株を移植しました。 昭和44(1969)年、広青年教育センターが開所に伴ってこの敷地内に移植され、再度現在地に移植されています。 根回り高さともに3m以上、枝張りは東西で5mを超えています。
呉市域のソテツとしては最大であり、老大樹を3度移植したにもかかわらず樹勢はおう盛であること、移植の史実が今にはっきりと伝えられていることなど、天然記念物としての価値は高いものです。 ソテツはソテツ科の常緑裸子植物で、樹の幹に葉の跡が螺旋状に残っており、ほぼ1年に1列ずつ新葉が出るので、これを数えてもおおよその樹齢がわかります。

広青年教育センターのソテツ

広青年教育センターのソテツ

広青年教育センターのソテツ

アクセス

広電バス天応川尻線、広長浜呉駅線、郷原黒瀬線に乗車、「広支所」下車すぐ。

参考資料

  • 呉市教育委員会,広青年教育センターの蘇鉄説明板

大林源蔵翁頌徳碑

碑文より引用

大林家は、広村が毛利の所領であった頃から、代々庄屋役を勤め村の開発に盡力それてきた。 特に大林家中興の祖とも言われる大林源蔵翁は、寛永十年に生れ、元禄十四年に歿す。在世六十余年の間に公共の福祉の増進に貢献したが中でも、荒れ果てた広村開発に思いをいたし、長年苦労の末 広村大新開一三二町一畝六歩、広村源蔵新開四町五反八畝十一歩、隣村仁方村塩浜新開二十一町五畝歩などの新田開発事業は、その最も顯著なるものである。工事にあたっては、土木技術の幼稚であったと思われる当時、道路、渠溝、樋管、水溜等、実に綿密周到な計画のもとに耕地整理を行ない、今日広町発展の礎を築いた。

大林源蔵翁頌徳碑

大林源蔵翁頌徳碑

アクセス

広電バス天応川尻線、広長浜呉駅線、郷原黒瀬線に乗車、「広支所」下車すぐ。

参考資料

  • 碑文:神谷伊津造撰 立花竹石書/昭和四十五年七月 呉市広郷土史研究会

広邑新墾碑−呉市史跡

説明板より引用

文化8(1811)年、広村の大庄屋・多賀谷武兵衛が独力をもって弥生新開の開拓事業を竣工し、39町余の新田を造成した功績をたたえ、頼山陽が文を考え、書いたものです。 頼山陽の筆による石碑文は数少なく、珍しいもので、碑文も開墾碑文の模範として諸書に引用されている名文です。 近世広村形成の一端がうかがわれ、大変興味深いものです。 もともとは、弥生新開の稲荷橋の西のたもとにたてられていましたが、道路拡張等により公民館のそばに移され、現在に至っています。
多賀谷武兵衛は、蒲刈島から広村に元禄年間(1688−1703)に移り住んだ多賀谷氏の4代目にあたり、父仙兵衛のあとを継いで、寛政7年(1795年)に広村庄屋を命ぜられ、ついで文化5年(1822年)に大庄屋を命ぜられ、文政7年(1824年)まで30年間村政にたずさわった人です。
なお、碑刻に文化15年(文政元年)3月としていますが、実際に山陽がこの碑文を書いたのは文政2年(1819年)5月のことです。

広邑新墾碑

広邑新墾碑

広邑新墾碑

アクセス

広電バス天応川尻線、広長浜呉駅線、郷原黒瀬線に乗車、「広支所」下車すぐ。

参考資料

  • 呉市教育委員会,広邑新墾碑説明板
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