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説明板より引用
この水門跡は、広村大新開開拓工事のために岩樋を削り取って樋門(通水門)を造り、汐の干満を利用して生活汚水等の悪水を海に流したものです。
貞享4年(1687年)、広村の庄屋大林源蔵(1634〜1701)は一人で干拓工事を企画設計して、藩に工事の許可を願い出ましたが認められませんでした。その後、数度にわたって願い出た結果、代官・大桑半左衛門によってようやく認められました。藩の主任者を鈴木左源太とし、12郡から出役した多くの人夫を統率指揮する普請頭に源蔵が任命されて、工事に着手し、元禄2年(1689年)に完成しました。 完成後133町歩余りの新田ができ、道路、溝渠(水路)、樋管、水溜の設備が整然と備わり、当時としては非常に優れた大事業でした。この石は、宝暦9年(1759年)に樋門が造りかえられた時の石で、天保13年(1842年)から翌年にかけて行われた工事の記録が刻まれています。
広電バス広長浜呉駅線に乗車、「岩樋・王子製紙前」下車 。 徒歩1分。