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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

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旧靜觀邸

この邸宅は、呉鎮守府建築委員副長・佐藤鎮雄大佐(のち呉鎮守府参謀長)のために、澤原為綱が和洋折衷の平屋を建てて提供し「靜觀邸」と呼んだものである。

1886年(明治19年)5月4日勅令第39号により、第二海軍区鎮守府の位置として安芸国安芸郡呉港が定められ、10月27日に建築委員副長兼建築事務管理の佐藤鎮雄海軍大佐が来呉、30日には土木工事が起工された。 しかしながら、海軍関係者の宿舎建築が遅れていたため、その多くは借家や間借りをしていた。 佐藤大佐は広島で旅館を宿舎としていたが、前安芸郡長の澤原為綱が佐藤大佐のために吉浦村川原石の所有地に木造平家建の邸宅を新築して提供した。 建築時期に関する記録は残されてないが、1887年(明治20年)夏頃には、完成していたと考えられている。(1)

この邸宅は、洋風の玄関および応接室などが前方に、和室の居住部分が後方に配され、旧呉鎮守府長官官舎や旧呉鎮守府官舎(現存せず)に共通した構造となっている。

屋根は全て日本瓦葺で、洋館部上部には暖炉のレンガ積み煙突(2.7m)が、屋根を貫通して建っている。 煙突は50×70cmの長方形で、角形の環帯装飾を2段つけている(2)。 洋館部は玄関ホール(幅2m×奥行4m)、応接控室(3.5m×4.5m)、応接室(4.5m×5.5m)、寝室(5.8m×4.2m)、居間及び食堂などから構成されている(3)

和室部には、三間続きの座敷があり、7畳半(間口約2.9m、奥行き約4.8m)の座敷、10畳(間口約3.7m、奥行き約4.8m)の中の間座敷および10畳(間口3.7m、奥行き約4.8m)の本座敷より構成されている。中の間座敷は建築当初、3部屋連続の座敷の「中の間」で、床と違い棚があったが1959年(昭和34年)に床を仏間に改修されている。 この三間続きの座敷は、間仕切の襖を取り払う払うと、27畳の大広間にすることができる。(4)

注)現在は一般民家のため内部見学は不可。

旧静観邸

旧静観邸

旧静観邸

旧静観邸

旧静観邸

佐藤大佐は1889年(明治22年)4月1日に呉鎮守府参謀長兼建築部長に任命されたが、1890年(明治23年)5月13日には「龍驤」艦長として転出した。 後任の参謀長は東郷平八郎大佐であった。(5)

佐藤大佐が転勤の後、「靜觀邸」には造船部長赤峰伍作大技監が入居した。 1897年(明治30年)10月8日に海軍造船廠条例が施行され、初代呉造船廠長に赤峰造船大監が任命されたが12月3日には待命となった。(6)(7)

赤峰造船廠長の後には軍港部長三浦功少将が入居した。 1900年(明治33年)5月20日に組織替えで港湾部長となる。 「靜觀邸」のある川原石の港から、港湾部まで港湾部所属の小蒸気船で通勤していた。 三浦少将は1903年(明治36年)7月7日に待命となるまで居住していた。(6)(8)

昭和に入り、1933年(昭和8年)頃には徳川達成造兵中佐が居住していた。 11月20日に戦艦「扶桑」の分隊長として着任した高松宮宣仁親王を「俊山荘」に訪ねた際、徳川造兵中佐は「近くにある澤原のとても古い別邸にいる」と告げている。 徳川造兵中佐は1932年(昭和7年)5月10日に呉海軍工廠砲熕部部員兼務となり、主として兼務廠での服務を命ぜられている。 1933年(昭和8年)8月には、単身での服務が1年以上経過したことを理由に家族移転料を請求し、これが認められている(9)。 家族は妻と子供4人であり、家族と同居するために広い「靜觀邸」に入居したと考えられる。

1940年(昭和15年)1月に、この邸宅を借り上げて住んだのは、呉海兵団副長兼教官の大田實大佐(後に沖縄戦で自決した大田中将)である。 当時の家族は子供達3男6女の大世帯であり、普通の家では、入り切れなかったため「靜觀邸」に入居することになった。 その後、第二連合特別陸戦隊司令官等を経て、1942年(昭和17年)8月10日に佐世保第二海兵団長を拝命、婦人と幼児3人は佐世保に転宅した。 11月1日には海軍少将に任ぜられ、20日には第八連合特別陸戦隊司令官を拝命、ニュージョージア・コロンバンガラ方面を転戦した。 1944年(昭和19年)2月10日、軍令部出仕となり内地へ帰還、3月20日には佐世保海軍警備隊司令官兼佐世保海兵団長を拝命した。 この年の4月29日の天長節には、呉に残っていた家族を呼び寄せ、一家そろっての記念写真を撮影している。 1945年(昭和20年)1月20日、第四海上護衛隊司令官兼沖縄方面根拠地隊司令官を拝命、沖縄県小禄の司令部に着任した。 1月末、留守家族は「靜觀邸」へ戻った。 大田少将は6月13日に沖縄戦で戦死、同日付で海軍中将に任ぜられた。 終戦後も大田中将の家族は1950年(昭和25年)夏まで「靜觀邸」に居住していた。(10)

アクセス

近辺略図

JR呉線「川原石駅」下車。 徒歩4分。

JR呉駅から広電バス天応川尻線(天応、吉浦方面ゆき)乗車。 「海岸三丁目」下車。 徒歩4分。

参考資料

  1. 松下 宏.呉で最初の洋風建築 海軍呉鎮守府初代参謀長 海軍大佐 佐藤鎮雄 住宅.呉市海事歴史科学館 研究紀要 第9号,2015,p53(20)-54(21)
  2. 前掲.呉で最初の洋風建築 海軍呉鎮守府初代参謀長 海軍大佐 佐藤鎮雄 住宅.p51(24)
  3. 前掲.呉で最初の洋風建築 海軍呉鎮守府初代参謀長 海軍大佐 佐藤鎮雄 住宅.p48(27)-50(25)
  4. 前掲.呉で最初の洋風建築 海軍呉鎮守府初代参謀長 海軍大佐 佐藤鎮雄 住宅.p46(29)-47(28)
  5. 前掲.呉で最初の洋風建築 海軍呉鎮守府初代参謀長 海軍大佐 佐藤鎮雄 住宅.p44(31)-45(30)
  6. ab前掲.呉で最初の洋風建築 海軍呉鎮守府初代参謀長 海軍大佐 佐藤鎮雄 住宅.p44(31)
  7. 海軍歴史保存会編.日本海軍史 第10巻(将官履歴 下).東京,海軍歴史保存会,1995,p756
  8. 海軍歴史保存会編.日本海軍史 第9巻(将官履歴 上).東京,海軍歴史保存会,1995,p414
  9. 第3615号 8.7.12 移転料請求に関する件.アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C05023209700.公文備考 昭和8年 L 会計 巻1(防衛省防衛研究所)
  10. 田村洋三.沖縄県民斯ク戦ヘリ:大田実海軍中将一家の昭和史.東京,講談社,1994,p478-491

煉瓦塀

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