縁起は不明であるが、1600年代の前半に内海村(現・呉市安浦)から神官が祭礼のために訪れていたらしいので、それ以前にどこからか遷座したものと思われる。 (1)。 七社が合祀されており、その神社と御祭神以下の通り。
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本殿および祓殿は、2008年(平成20年)3月24日に呉市指定重要文化財建造物に指定された。 神社に残る最も古い棟札によると、享保六年(1722年)に社殿が建立されており、大工は「呉和庄邑中潮甚八、安里、甚六」と記されている。 また、延享五年(1748年)には拝殿が、宝暦五年(1755年)年には廊下が造営されている。
現在の本殿および祓殿は寛政八(1796)年に再建されたもので、大工は和庄村(現・呉市)の中潮勘平と儀平の親子である。 中潮(中塩)一族は、江戸時代中期から幕末にかけて、呉市周辺で活躍した宮大工の棟梁の家柄である。 この本殿および祓殿は一連の建物で、春日造風の本殿前面に入母屋造妻入りの祓殿を接続させてを一体化したもので、他に例を見ない独特の社殿形式となっている。(1)(2)(3)
なお、2004〜06年(平成16〜18年)に、本殿および祓殿の解体修復、渡り殿の建替、拝殿の屋根葺替えが行われたが、その際に旧材を極力補修して再利用している。
末社の須賀神社には、五社が合祀されており、その神社と御祭神以下の通り
須賀神社も、2004〜06年(平成16〜18年)の本殿および祓殿の解体修復の際に修復されている。
1924年(大正13年)12月に本庄村苗代区有志の名で建立。 佐賀の乱1名、北清事変6名、日露戦争21名、第一次大戦5名の従軍者氏名が刻まれている(4)。
砲弾の詳細は不明。 25〜26cmクラスの砲弾と思われる。
JR呉駅から広電バス焼山熊野苗代線(苗代下条)ゆき乗車。 「苗代西条」バス停下車,徒歩約10分。
自動車の場合は、付近に駐車場スペースなし。 また、離合困難な道路しか通じていないので注意。