本文へ

三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

狩賀町の吉浦中学校校庭に女子動員学徒寄宿舎跡の碑が建立されている。 この地には1944年(昭和19年)6月から1945年(昭和20年)8月の終戦まで、学徒動員された高等女学校生の寄宿舎が存在した。 ここに寄宿した島根、広島両県の高等女子校12校が、1995年(平成7年)5月に開催した学徒動員五〇周年大会で記念碑建立が発議され、同年12月にこの碑が建立された。

画像をクリックすると拡大表示。 戻るときには表示されたページ下部の「戻る」をクリック。

女子動員学徒寄宿舎跡碑

女子動員学徒寄宿舎跡碑

女子動員学徒寄宿舎跡碑

狩留賀寄宿舎位置図

長浜地下壕周辺図

呉工廠へは、出勤時には吉浦港から船で工廠内の桟橋に行き、退勤時は呉駅から列車で吉浦駅まで帰ったようである(後期には出勤時にも列車を使用した)。 また、配属部署によっては、吉浦港から船で江田島に渡っていた。

建立協力校

校名 動員数 入寮 配属場所 備考
県立津和野高等女学校 93名 昭和20年7月2日 製鋼部
県立浜田高等女学校 207名 昭和19年10月7日 水雷部
県立益田高等女学校 100名 昭和20年7月 電気部 昭和19年10月1日に宮原寮に入るが、昭和20年7月1日の空襲により、宮原寮が焼失したため、狩留賀組と広島組に分かれる。
益田家政高等女学校 142名 昭和20年7月1日 電気部 昭和19年10月に宮原朝日寮に入るが、昭和20年7月1日の空襲により、宮原寮が焼失したため、狩留賀へ入寮。
芸陽高等女学校 329名 昭和19年6月12日:4年生
昭和19年10月18日:3年生
昭和20年7月12日:3年生
火工部
県立甲山高等女学校 55名 昭和19年6月12日 造機部 昭和19年7月に宮原寮に移るが、昭和20年7月1日の空襲により、宮原寮が焼失したため、再度狩留賀へ入寮。
西城高等女学校 94名 昭和19年9月1日 砲熕部 昭和20年2月5日に宮原寮に移るが、空襲激化により三カ所に移転。 作業係は昭和20年7月1日の空襲により、宮原寮が焼失したため、再度狩留賀へ入寮。
山陽高等女学校 165名 昭和19年6月14日 火工部
新庄高等女学校 63名 昭和19年6月12日 製鋼実験部
電気実験部
医務部
瀬戸田高等女学校 61名 昭和19年9月1日 製鋼部 昭和20年1月に宮原寮に移るが、昭和20年7月1日の空襲により、宮原寮が焼失したため、再度狩留賀へ入寮。
県立竹原高等女学校 100余名 昭和19年6月12日 製鋼部 入寮一ヶ月後に両城へ移動。 昭和19年8月20日に宮原女子寮に移るが、昭和20年7月1日の空襲により、宮原寮が焼失したため、再度狩留賀へ入寮。
県立忠海高等女学校 52名 昭和19年6月20日 火工部
津田高等女学校 44名 昭和19年9月1日 製鋼部 昭和20年に宮原寮に移るが、昭和20年7月1日の空襲により、宮原寮が焼失したため、再度狩留賀へ入寮。
鞆高等女学校 57名 昭和20年8月7日 見習中
県立東城高等女学校 57名 昭和19年9月1日 砲熕部 昭和20年6月の空襲で職場が壊滅状態になったため、工具工場は岡山県成羽町、第一弾丸工場は仁方へ疎開。
日彰館高等女学校 105名 昭和19年6月19日 火工部
婦徳高等女学校 57名 昭和19年6月12日 火工部
向原高等女学校 63名 昭和19年6月12日 火工部 昭和20年2月に秋月の宿舎に移る。
県立吉田高等女学校 約55名 昭和19年5月 火工部
川之江高等女学校 55名 昭和19年5月 火工部
済美高等女学校 50名 昭和19年5月 火工部
松山城北高等女学校 80名 昭和19年5月 火工部
松山女子商業高等女学校 40名 昭和19年5月 火工部
東雲高等女学校 55名 昭和19年5月 火工部

参考資料

  • 施設図(其の1)(3).アジア歴史資料センター、リファレンスコード:C08010961800(第32画像目).呉海軍工廠引渡目録 1/8 第2復員局 (@−引渡目録−105).防衛省防衛研究所
  • 動員学徒記念碑建立世話人会.動員学徒記念碑建立.呉,動員学徒記念碑建立世話人会.1995,32p
  • 呉戦災を記録する会編.呉戦災:あれから60年.呉,呉戦災を記録する会,2005,p96-150.(ISBN4-9902568-0-8)
inserted by FC2 system