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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

宗谷履歴

貨物船ボロチャエベツ

1936年(昭和11年)9月18日松尾造船所(後の川南工業)は、ソビエト連邦通商代表部と耐氷型貨物船3隻の受注契約締結した。 この3隻は、起工順にボルシェビキ(共産党員)、ボロチャエベツ(ボロチャエフの戦友)、コムソモーレツ(共産主義青年連盟)と命名された。 3隻の内、二番船のボロチャエベツが後の地領丸、すなわち宗谷である。

ボロチャエベツは、1936年(昭和11年)12月7日に松尾造船所(翌年4月に香焼島造船所と改名)で起工、1938年(昭和13年)2月16日、進水したが、日ソ関係の悪化などによりソ連への引き渡しは行われず、同年6月10日に川南工業の地領丸として竣工した。 他の2隻も同様に、ボルシェビキは天領丸としてとして4月15日に、コムソモーレツは民領丸として5月30日に竣工した。

貨物船地領丸

貨物船地領丸要目

引き取り手のないまま竣工した地領丸は、日新汽船にチャーターされ、1938年(昭和13年)10月から大連を基地に天津、青島、上海を往復し、雑貨や食料品を運搬した。 1939年(昭和14年)4月20日、神戸の辰馬(たつま)汽船と川南工業が協同で出資した辰南商船が設立、同社の所属となった。 5月7日には、栗林商船にチャーターされ、北海道−北千島の貨物輸送に従事。 10月に栗林商船のチャーターが終了した後は、朝鮮、台湾方面で貨物輸送に従事したが、11月に日本海軍による買い上げが決まり、12月20日東京石川島造船所深川第一工場に回航された。 海軍での本船の用途は、老朽化した砕氷艦大泊の不足を、新型砕氷艦の完成まで本船をもって代用することにあった。 また、大泊では不可能であった千島、樺太等への物資輸送、さらに測量用にも使用する計画とされていた。

特務艦宗谷

特務艦宗谷要目

特務艦宗谷

地領丸は海軍に正式に購入され、1940年(昭和15年)2月20日、宗谷と命名された(特務艦に編入、運送艦に類別)。 運送艦への改装は6月4日に完了した。 改造個所は、武装として8センチ単装高角砲1門と25ミリ連装機銃1基を装備、測量用に海軍制式の音響測深儀や10メートル測量艇2隻(定数4隻)、測深儀室、製図室、測量作業室などを設置した。

改装なった宗谷は6月10日に横須賀を発し、6月13日に大湊着。 以後、大湊要港部の指揮下で千島列島、樺太周辺の測量任務に従事した。 9月11日、横須賀に帰還し、9月15日付で横須賀鎮守府付属となった宗谷は、9月26日〜10月8日に洋上気象観測用器材を搭載した。 10月11日には、御召艦比叡以下、艦艇98隻、航空機527機が参加して横浜沖で行われた紀元二千六百年記念観艦式に拝観艦として参加した。

11月12日横須賀を発した宗谷は、1941年(昭和16年)3月までマリアナ方面での測量任務に従事した。 一旦、横須賀に戻った宗谷は、5月7日に再び出港、トラック経由でポナペへ進出。 以後、コロニアを基地にポナペ−トラックの測量任務に従事した。 7月30日、トラックに入り、トラック環礁内、東カロリン諸島の測量任務に従事した。 10月20日、トラックを発し、サイパン経由で11月13日横須賀に到着、入渠整備を行った。

横須賀で12月8日の開戦を迎えた宗谷は、12月11日から東京・築地の水路部で、水路部測量器材を搭載した。 12月28日に特設輸送艦の指定を受けた宗谷は、翌29日に輸送物件を搭載し横須賀を出港、1942年(昭和17年)1月1日、父島で物資の一部を揚陸した後、1月9日にトラックに到着した。 輸送物件を卸した宗谷は1月19日にトラックを発し、1月29日に横須賀到着。 この間、1月21日付で連合艦隊第四艦隊に編入された。 入渠整備を行った宗谷は2月14日に横須賀を発し、トラック、ポナペ経由で3月19日にニューブリテン島ラバウルに進出した。 以後、ラバウルを基地に周辺測量と海上状況観測任務に従事した。 また、南方攻略作戦の一環として、ニューギニア(ラエ、サラモア)方面およびブーゲンビル島方面の攻略作戦に参加した。

5月17日、MI(ミッドウェー)作戦参加のため、集合地のサイパンに向けラバウルを発した。 5月26日に輸送船団とともにサイパン発、6月4日にはミッドウェー島北西500海里でB-17九機と交戦した。 6月7日、作戦失敗の報に接して、大鳥島(ウェーク島)へ転針・待機。 6月13日、ポナペへ撤収し、宗谷のMI作戦は終了した。

6月21日、ラバウル方面防備部隊測量部隊に再編入された宗谷は、ニューアイルランド島、ブーゲンビル島等の測量任務に従事した。 1943年(昭和18年)1月27日には、ブカ島クインカロラ港附近で敵潜水艦の雷撃を受け、被雷1発(不発)。 第二十八駆潜艇と共同して、敵潜水艦撃沈した。 5月5日、サンタイザベルでB-24一機と交戦、小破。 5月23日には、ニューアイルランド島カビエンで敵機と交戦。 至近弾により転輪羅針儀と音響測定器を破損した。

6月24日、カビエンからトラック、サイパン経由で横須賀着。 入渠整備を行い7月19日に横須賀を発し、トラック、ブインを経て8月30日にラバウルに到着し、第八根拠地隊周辺の測量任務に従事した。 10月8日、海上機動第一旅団第二大隊の一部を乗せ、船団とともにトラック発。 10月13日にマーシャル諸島クェゼリンで部隊揚陸後、ルオット、ブラウン島の測量任務に従事した。

1944年(昭和19年)1月18日、トラックに移動した宗谷は、2月1日付で連合艦隊附属となった。 2月17日、18日のトラック空襲で敵機と交戦中座礁、小破したが、19日に離礁完了。 機関部の応急修理を行い、3月17日にトラック発。 サイパン、父島二見を経て4月7日に横須賀着。 横須賀工廠第五船渠に入渠して修理を行った。 また、日本鋼管浅野ドックでボイラを円缶から水管缶に交換した。 改装が完了したのは6月16日であるが、5月には北千島に向かう戦車第十一連隊第四梯団を護衛して、大湊から幌筵島柏原に赴いている。 1944年(昭和19年)中は機関の修理と試運転を繰り返し、輸送任務に復帰するのは1945年(昭和20年)2月となった。

1945年(昭和20年)2月27日〜3月2日に軍需品輸送のため、横須賀−室蘭を往復したのを手始めに、以後五次にわたる輸送任務に従事した。 6月26日、羅津に向けて航行していた第一六二四船団(宗谷、海防艦四阪、第五十一号駆潜艇、第三十三号掃海艇、特務艦神津丸、貨物船永観丸)は、岩手県?崎灯台沖で敵潜水艦の襲撃を受け、神津丸、永観丸が被雷沈没。 宗谷を含む護衛部隊は、対潜掃蕩を実施し敵潜水艦を撃破した。 8月2日、横須賀第四ドックに入渠中に空襲を受けた宗谷は、横須賀鎮守府の待避命令に従い、翌3日横須賀を発し、女川、八戸を経て8月8日に室蘭に入港。 ここで8月15日の終戦を迎えた。

武装解除の手続きと引き渡しのため8月17日に室蘭を発した宗谷は8月21日に横浜着。 横須賀には8月24日に到着した。 8月30日、引き渡しを完了、9月5日に除籍された。

引揚船宗谷

日本に進駐した連合国軍は、在外邦人の引揚について、1945年(昭和20年)10月1日に使用可能な船舶をすべて動員して引揚業務に当たることを命じた。 宗谷は同日付で大蔵省に返還され、船舶運営会に所属する引揚船となった。 10月7日、ヤップ島復員任務のため浦賀発。 同月24日に帰還。 11月20日にはグアム、トラック方面復員任務のため浦賀発。 12月12日に大竹で揚陸後、呉に移動した。

12月26日上海方面復員任務のため呉発。 以後、台湾、ベトナムのサイゴン、葫蘆(コロ)島からの復員任務に従事した。 この間、1946年(昭和21年)3月23日、台湾の高雄からの引揚者輸送中、船内で女児誕生。 名付け親になった船長は、宗谷の一字をとって宗子(もとこ)と名付けた。

1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)にかけては、大連、朝鮮、樺太からの引揚輸送に従事した。 1948年(昭和23年)11月に引揚任務を終了するまでに運んだ引揚者の総数は、19,000名近くにも達した。

灯台補給船宗谷

灯台補給船宗谷要目

灯台補給船宗谷

引揚任務終了後、宗谷は小樽に係船され、樺太引揚業務の再開に備え、少数の要員が保管にあたっていた。 1949年(昭和24年)8月1日、宗谷はGHQより正式に帰還業務を解かれた。 このころ、海上保安庁は民間からチャーターし灯台補給船として使用していた第十八日正丸を返還するに伴い、その代船を捜していた。 8月13日に来訪した海上保安庁の係官により調査された宗谷は、使用可能と判断された。 11月に小樽より東京港竹芝桟橋沖に回航された宗谷は、12月12日付で海上保安庁へ移籍した。 石川島重工業で改装工事に着手、1950年(昭和25年)4月1日に改装を終えた宗谷は灯台補給船(LL−01)となった。

灯台補給船とは、岬の先端や離島に立つ灯台に対し、年に1回、発電機の燃料や灯台守の必需品を海上から補給する任にあたるものである。 当時、全国には461機の灯台があり、このうち60数基が海上補給を必要とするものであった。

4月20日〜6月6日、第一次補給航海を実施した宗谷は、南極観測船転用のため灯台補給船を解役されるまでの5年半、この任にあった。 灯台補給船時代の異色の任務が奄美群島現金輸送である。 アメリカ統治下にあった奄美群島が1953年(昭和28年)12月25日に日本に返還されることになり、9億円の現金と通貨交換業務要員の輸送をするというものであった。 12月20日、鹿児島を発した宗谷は21日名瀬に入港、各島を回り、25日に名瀬に帰港。 27日には「日本復帰祝賀式典」に出席した国務大臣一行を乗せ、28日に鹿児島に戻った。 明けて、1954年(昭和29年)1月3日、再び名瀬に向かい、各島で米軍統治時代の軍票を回収し、通貨交換業務要員を乗せ、1月9日に鹿児島に帰還した。

南極観測船宗谷

1957年(昭和32年)7月1日から1958年(昭和33年)12月31日に開催される国際地球観測年(International Geophysical Year、略称:IGY)にあわせて、日本は南極観測を行うことにし、1955年(昭和30年)7月に開催された第1回南極会議に文書で南極観測参加の意志を伝えた。 南極観測に使用する船はについて種々検討の結果、11月に宗谷と正式に決定した。

11月24日〜12月12日には三菱日本重工横浜造船所のドックで総点検が実施された。 12月24日に灯台補給船としての解任式が行われ、同日をもって巡視船(PL-107)へ種別変更された。 1956年(昭和31年)3月12日、日本鋼管浅野船渠で南極観測船への改造工事に着手し、10月17日に竣工した。

この改造の要点は、砕氷能力の30センチから1メートルへの引揚げ、南極往復を可能とする航続距離を持たせること等で、以下の工事が実施された。

  1. 両舷にバルジを設け、船体を二重外板にするとともに復原力を増す。
  2. 船首部は板厚25ミリの鋼板製で喫水線に対し傾斜角27度の新船首とし、他の主要外板も旧外板との合計板厚が25ミリとなるよう二重張りとする。
  3. 主機械は、2,400馬力ディーゼル・エンジン2基とし、2軸推進とする。
  4. 航続距離10,000海里、連続行動60日分の燃料と清水を搭載する。
  5. 乗組員、観測隊員130名が乗船し、観測資材400トンを搭載する。
  6. 小型ヘリコプター2機の格納庫及びヘリ甲板とセスナ機の架台を設ける。

第1次南極観測

南極観測船宗谷要目(第1次南極観測時)

南極観測船宗谷(第1次南極観測時)

1956年(昭和31年)11月8日、第1次南極観測隊を乗せ東京晴海埠頭を出港、シンガポール、ケープタウンを経由し、1957年(昭和32年)1月24日に南緯69度東経39度の地点に接岸した。 1月29日、観測隊はオングル島に公式上陸して、ここを昭和基地と命名した。 2月15日、11人の越冬隊を残して離岸したが、パックアイスのため行動不能となった。 3月28日、救援要請に応じて来航したソビエト連邦の砕氷船オビ号の協力により外洋への脱出に成功した。 ケープタウン、シンガポールを経由した宗谷は4月24日に東京に帰港した。

この後、宗谷は修理、改造を繰り返しながら、6次にわたる南極観測任務についた。

第2次南極観測

南極観測船宗谷要目(第2次南極観測時)

南極観測船宗谷(第2次南極観測時)

1957年(昭和32年)10月21日〜1958年(昭和33年)4月28日 第2次南極観測
この年の南極の気象状態はきわめて悪く、一時は氷海に閉じ込められ行動不能となった。 このときは、救援を待たず脱出に成功したが、1958年(昭和33年)2月1日には密群氷を航行中に左スクリュー・プロペラ1枚を折損した。 その後、アメリカ海軍の砕氷艦バートンアイランドの援護により、昭和基地に接近したが、天候の悪化により物資の空輸が困難となった。 このため、2月24日、越冬計画を断念し帰途についた。

第3次南極観測

南極観測船宗谷要目(第3次南極観測時)

南極観測船宗谷(第3次南極観測時)

1958年(昭和33年)11月12日〜1959年(昭和34年)4月13日 第3次南極観測
前回、南極に置き去りにされた15頭のカラフト犬のうち生存していた「タロ」と「ジロ」が収容された。

第4次〜第6次南極観測

南極観測船宗谷要目(第4次〜第6次南極観測時)

南極観測船宗谷(第4次〜第6次南極観測時)

1959年(昭和34年)10月31日〜1960年(昭和35年)4月23日 第4次南極観測

1960年(昭和35年)11月12日〜1961年(昭和36年)5月4日 第5次南極観測

1961年(昭和36年)10月30日〜1962年(昭和37年)4月17日 第6次南極観測

巡視船宗谷

巡視船宗谷要目

巡視船宗谷

1962年(昭和37年)6月15日、日本鋼管浅野船渠に入渠、観測機器や航空機関係の重装備を撤去した。 8月に工事を終えた宗谷は、通常の巡視船としての任務に就いた。 8月1日、第三管区海上保安本部の所属となったが、3日には北洋海域のサケ・マス漁業監視のため、第一管区釧路海上保安部へ派遣された。 1963年(昭和38年)4月1日には、第一管区海上保安本部に転籍し、以後、その砕氷能力を生かして北方海域の警備に従事した。

1970年(昭和45年)3月16日には、釧路保安部の緊急指令を受け、択捉島単冠湾に出動、流氷群に前進をはばまれ、猛吹雪の中で航行不能になった漁船群19隻の捜索救難活動にあたった。 最晩年の1978年(昭和53年)3月10日には、稚内港の流氷を粉砕し、漁船を外洋に誘導する任務に出動、3月12日に41隻の漁船を外洋に誘導した。

第一管区海上保安本部時代の宗谷は「北洋の守り神」と呼称され、海難救助出動は350件以上、救助した船125隻、救助人数約1,000名に及んだ。 1978年(昭和53年)10月1日に解役された宗谷は、保存を望む声を受け、1979年(昭和54年)5月1日から、東京臨海副都心(お台場)の船の科学館で一般公開されている。

謝辞

アイコンはsinn様管理の「アイコン工房」より、ご提供頂いた。

参考資料

  • 大野芳.特務艦「宗谷」の昭和史.東京,新潮社,2009,378p.(ISBN978-4-10-390407-6)
  • 桜林美佐.奇跡の船「宗谷」:昭和を走り続けた海の守り神.東京,並木書房,2006,191p.(ISBN4-89063-206-9)
  • 船の科学館資料ガイド「南極観測船 宗谷」.東京,日本海事科学振興財団,2002,22p
  • 日本海軍特務艦船史.東京,海人社,1997,p33,世界の艦船.No522 1997/3増刊号 増刊第47集
  • 海上保安庁全船艇史.東京,海人社,2003,p57,p75,世界の艦船.No613 2003/7増刊号増刊第62集
  • 福井静夫.日本補助艦艇物語.東京,光人社,1993,p232-233,軍艦七十五年回想記,第10巻.(ISBN4-7698-0658-2)
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