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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

重油タンク?

光町の呉市新宮下水処理場に残る構造物。 呉軍港図で見ると、航空廠兵器部重油槽の位置に近いが、戦後に米軍が撮影した写真には、それらしきものが写っていないので戦後に作られたものかもしれない。

重油タンク?

アクセス

JR呉駅から広電バス天応川尻線(天応、吉浦方面ゆき)に乗車。「海岸四丁目」で下車。 藤三光ショッピングセンターを過ぎて、左に下る道を降りてIHI新宮工場の正門前まで行くと左側に見える。

参考資料

  • 呉市史編纂委員会編.呉市史第6巻付録「呉軍港図」.呉,呉市役所,1988

旧潜水学校

ジェイ・アール・シー特機呉事業所とアイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド新宮工場の敷地の一部には、1944年(昭和19年)6月まで、海軍潜水学校が置かれていた。

ジェイ・アール・シー特機の石積みの塀は、当時の写真に写っているものによく似ている。 また、護岸には突堤の一部らしきものがあるが、これらが海軍潜水学校当時のものかは不明である。

旧潜水学校

旧潜水学校

旧潜水学校

旧潜水学校

海軍潜水学校について

1904年(明治37年)潜水艇1号〜5号の組立に伴い、艤装委員長小栗孝三郎海軍中佐により、艤装委員および艤装員付に対して行われた基礎教育(機器取り扱い、操縦)から日本海軍の潜水艦教育は始まった。 初期は潜水艦の隻数も少なく要員も少なかったので、特に養成機関を設けずに艇内で新しい乗員を教育していた。

大正時代に入り、潜水艇の保有量が増加し、また潜水艇の技術的な進歩もあり、従来の方法では潜水艇要員の養成に支障が感ぜられるようになったため、組織的に整備された教育機関が必要となった。 1915年(大正4年)6月、海軍教育本部第二部に潜水艦専門の担当部員が配され、1917年(大正6年)6月には潜水艦定員二倍制度が採用された。 これは、当面の教育対策として、余剰定員を潜水母艇または陸上の防備隊施設で基礎的な教育を行った後、実習教育を実施し潜水艦要員を養成することを目的としたものである。

1918年(大正7年)5月に開設された臨時潜水船調査会では潜水学校設立の必要が強調された。 この調査会の報告により、1919年(大正8年)12月18日潜水学校設立の訓令が発せられ、呉鎮守府に海軍潜水学校設立委員会を設置した。 海軍潜水学校建設費は、大正9年度予算案に計上されていたが、衆議院の解散のため予算不成立となった。 このため、応急策として呉防備隊の一部及び厳島丸(旧軍艦厳島)を仮校舎とし、1920年(大正9年)6月から学生及び練習生の教育を開始した。

1920年(大正9年)9月3日、予算が成立して海軍潜水学校令が公布され、9月15日に正式に厳島丸を校舎として海軍潜水学校が誕生した。 潜水学校の陸上校舎は、敷地問題が難航し、新校舎に移転したのは1924年(大正13年)8月となった。

発足当時、海軍潜水学校長は海軍教育本部長に隷属していたが、1923年(大正12年)4月呉鎮守府司令長官に隷属することとなり、学生種別などが改正された。 海軍潜水学校令は、その後小改正だけで開戦を迎えた。

開戦後の1942年(昭和17年)4月15日に大竹分校が増設され、同年11月23日には大竹に本校を移転し、呉の本校を分校とした。 1944年(昭和19年)4月1日には平生分校が開校、呉分校より機能を移転し、同年6月には呉分校は閉校となった。 呉分校の施設は、その大部分を呉潜水艦基地隊に変更され、終戦を迎えることとなる。

アクセス

JR呉駅から広電バス天応川尻線(天応、吉浦方面ゆき[峠経由])に乗車。 「海上保安大学校入口」で下車。 徒歩10分。

参考資料

  • 津田勲編.海軍潜水学校史.呉,海上自衛隊潜水艦教育訓練隊,1996.p14-85
  • 日本海軍潜水艦史刊行会.日本海軍潜水艦史.東京,日本海軍潜水艦史刊行会,1979.128-130p
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