本文へ

三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

毛利輝元が築城した広島城は原爆により建物が全て倒壊し、当時のものは残っていない。 現在の天守は1958年(昭和33年)に鉄骨鉄筋コンクリート造で復元されたものである。 また、城内や周辺には旧陸軍の施設が多くあったが、これらも原爆により破壊されて残っていない。

画像をクリックすると拡大表示。 戻るときには表示されたページ下部の「戻る」をクリック。

広島城天守閣

毛利氏は元就の時代まで吉田郡山城を本拠としていた。 毛利氏は元就の代に守護大名である尼子・大内の両氏を滅ぼし、中国十カ国を領する大戦国大名となった。 吉田郡山城は中国山地の狭隘な盆地にあったため、元就は新城を適地に築こうと考えていたようだが、果たせず1572年(元亀2年)に没した。

跡を嗣いだ孫の輝元は、太田川河口の五箇庄への移城を決意し、築城の鍬入れ式を1589年(天正17年)4月15日に行った。 翌1590年(天正18年)正月より工事が本格化し、1593年(文禄2年)には土木工事を一応完了させるに至った。 1591年(天正19年)には天守閣が完成し、輝元が吉田郡山城から入城した。 この城は十年の歳月を要して1599年(慶長4年)1月に落成し、祝賀の宴が張られた。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに西軍の総大将として参戦した輝元は、この戦いに敗れたことにより周防・長門の二カ国に押し込まれ、広島城を明け渡すこととなった。 毛利氏の後には、安芸・備後に封ぜられた福島正則が入城した。 しかし、福島氏も1619年(元和5年)6月に津軽へ転封され、浅野氏の居城となった。 以後、広島の浅野氏は十二代、約250年間続いて明治維新を迎えた。

明治以後、広島城内は陸軍用地となった。 1873年(明治6年)に広島鎮台が設置され、1888年(明治21年)5月14日には改編により第5師団となった。 また、隷下の歩兵第十一連隊や広島陸軍幼年学校なども城内に設置された。 日清戦争に際しては、大本営が東京から広島へ移され、1894年(明治27年)9月15日から1895年(明治28年)4月27日まで明治天皇は広島に行幸した。

1931年(昭和6年)には国宝に指定されたが、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分原子爆弾により天守などの建物が倒壊した。 現在の天守は1958年(昭和33年)に鉄骨鉄筋コンクリート造で復元されたものである。

広島城ウェブサイト→http://www.rijo-castle.jp/

広島城

広島城

広島城

参考資料

  • 山陽の城.東京,小学館,1989,p238-256,探訪ブックス[日本の城7](ISBN4-7698-2447-5)

陸軍幼年学校跡

幼年時から幹部将校候補を育成するために設けられた陸軍の教育機関である。 広島陸軍幼年学校は1897年(明治30年)9月に開校したが、1928年(昭和3年)3月、軍縮により廃校となった。 1936年(昭和11年)広島幼年学校が復活したが、1945年(昭和20年)8月6日原子爆弾により校舎は焼失し、敗戦とともに廃校となった。

陸軍幼年学校跡

陸軍幼年学校跡

陸軍幼年学校跡

歩兵第十一連隊門柱

歩兵第十一連隊は1875年(明治8年)5月に創設。 1876年(明治9年)10月萩の乱、1877年(明治10年)月西南戦争に出動。 1894年(明治27年)日清戦争に出動。 1900年(明治33年)北進事変に出動。 1904年(明治37年)日露戦争に出動。 1919年(大正8年)シベリア出兵。 1937年(昭和12年)日中戦争に出動、徐州会戦、広東作戦等に参加。 1941年(昭和16年)第二次大戦、マレー攻略、シンガポール攻略に参加。 以後、終戦まで南太平洋戦域を転戦。

この門柱は1945年(昭和20年)8月6日の原爆被災の中で残存した遺跡である。 戦後は市内の保育園に保管されていたが、1984年(昭和59年)9月に移設された。

歩兵第十一連隊門柱

歩兵第十一連隊門柱

歩兵第十一連隊記念碑

歩兵第十一連隊記念碑

歩兵第十一連隊記念碑

広島大本営跡

1894年(明治27年)8月に勃発した日清戦争に際し、大本営が東京から移されることとなり、 当時の通信・交通状況から、山陽鉄道が開通し、大陸への兵站を担う宇品港を擁する広島が選ばれた。 同年9月に広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所され、そこに大本営が設けられた。 明治天皇の広島滞在は1895年(明治28年)4月27日までの7ヶ月あまりに及んだ。。

その後、建物は広島大本営跡として保存されていたが、1945年(昭和20年)8月6日の原爆で倒壊し、基礎石のみが残っている。

広島大本営跡

中国軍管区司令部地下通信室跡

広島城とその周辺には多くの軍事施設が置かれていたが、ここには中国軍管区司令部の地下通信室が設けられていた。 この通信室には学徒動員された比治山高等女学校の女学生が働いていた。

1945年(昭和20年)8月6日の原爆で広島市内の通信網は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島壊滅を通信した。 これが原爆被災の第一報といわれている。

中国軍管区司令部地下通信室跡

中国軍管区司令部地下通信室跡

中国軍管区司令部地下通信室跡

中国軍管区司令部地下通信室跡

中国軍管区司令部地下通信室跡

中国軍管区司令部地下通信室跡

中国軍管区司令部地下通信室跡

中国軍管区司令部地下通信室跡

中国軍管区司令部地下通信室跡

inserted by FC2 system