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三十糎艦船連合呉支部

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宇都宮黙霖の生涯

宇都宮黙霖(うつのみや・もくりん)は幕末の僧、思想家である。

幼名を采女、僧籍に入り僧名を覚了(かくりょう。 鶴梁とも。)とした。 還俗した後は、宇都宮姓を名乗り、名を雄綱(かつつな)、字を絢夫(雄文とも。)、通名を真名介(まなのすけ)といった。 号は黙霖。 他に、雪卿(せっけい、ゆきさと。 雪渓とも。)、梅卿(ばいけい、うめさと。 梅渓とも。)、史狂、王民などと号した。 また、院号として操心院を死後に贈られている。

本稿では、一般に知られている宇都宮黙霖または黙霖と呼ぶことにする

宇都宮黙霖は1824年(文政7年)9月、安芸国賀茂郡広村字長浜(現・広島県呉市広長浜三丁目)の住蓮寺で生まれた。 父は賀茂郡楢原村(現・東広島市黒瀬町楢原)西福寺住職の三男峻嶺(しゅんれい)、母は長浜の旧家下兼屋宇都宮作兵衛の次女琴である。 峻嶺は石泉塾で勉学中の青年僧であったため、結婚を認められず、琴は姉の嫁ぎ先である住蓮寺で黙霖を出産した。

生後半年で西福寺へ引き取られたが、3歳の年に賀茂郡正力村(現・東広島市八本松町)の善正庵の堂守・禮敬(らいぎょう)に養子に出された。  6歳のとき禮敬が死去して、後継の一道が養父となった。 7、8歳頃に手習修行のためとして長浜へと帰されたが、手習に身が入らず、養父との折り合いも悪くなったためか、正力村と長浜を往復するような生活であったらしい。 13歳のとき、一道と養子離縁し、実母の元に引き取られたが、相変わらず手習には身が入らなかったようである。

この黙霖の才を惜しんだ専徳寺住職・常諦(じょうてい)により、15才の頃に専徳寺に引き取られ、常諦によって大学を初めとする漢学や、国学などを授けられた。 常諦の妻は母・琴の妹テルであり、黙霖にとって義理の叔父にあたる。

1842年(天保13年)夏、賀茂郡寺家村(現・東広島市西条町寺家)の儒学者野坂由節(ゆうせつ)の恭塾で、春秋左氏伝の講義を受けた。 由節は師事して2ヶ月で死去したが、黙霖の勤王思想に大きな影響を与えたと思われる。 20才の頃、代表作となる「菊花を詠ず」を作る。

遠對南山泣短籬 遠ク南山ニ對イテ短籬ニ泣ク
黄花感慨少人知 黄花ノ感慨人知ルコト少ナリ
千秋郁郁天家號 千秋郁郁タリ天家ノ號
乃是渕明以上枝 乃チ是渕明以上ノ枝

次いで、安芸郡蒲刈島村三之瀬(呉市下蒲刈町三之瀬)弘願寺住職・円識の樹心斎塾で学び、さらに円識の紹介で、広島藩儒・坂井虎山の虎山塾で学んだ。

1844年(弘化元年)、21歳の黙霖は遊学の旅に出たが、10月に大阪で大病を患い、長浜に帰り専徳寺で療養した。 一命はとりとめたものの聾唖の身となった。 以後黙霖は、筆談をもって人と交わることとなる。 小康を得た黙霖は、京に上り、1845年(弘化2年)6月14日、本願寺の僧籍に入って、法名を覚了とした。

この後も、3年間の療養を強いられることとなったが、1847年(弘化4年)頃、「学問によって大義を明らかにするため一生を捧げる決心」を血書したと言われている。

1848年(嘉永元年)頃、備後尾道の福善寺を訪れ、住職の寂円に宗派の教義を学んだ。 このときより、黙霖は寂円を義父として仰ぎ、寂円も黙霖を義子として接した。

1850年(嘉永3年)夏、黙霖は九州遊学の旅に出、豊後日田の広瀬淡窓の学塾咸宜園(かんぎえん)にしばらく留まり、嗣子の青村などと交わる。 翌1851年(嘉永4年)には山陰遊学に出、丹波柏原、但馬養父、出雲松江、丹後田辺などの儒学者を訪ねて学んだ。 この頃、自らの勤王思想を表した「王覇の弁」の草稿をまとめたといわれている。

1852年(嘉永5年)江戸に遊学する。 江戸までの道中、尾道の福善寺で寂円を訪ねたのをはじめとし、京都、大和、伊勢、尾張、遠江の諸学者を訪ねた。 江戸でも、当時一流の儒学者を訪ねて学び、あるいは尊皇倒幕を激しく説いたという。 この年8月、羽倉簡堂を訪ねた際、その才を認められね寄宿して修学した。 このとき遊学中の土屋松如(蕭海)と出会い、その後も交友を続けることとなる。 この頃、「王覇の弁」をまとめ上げたと思われる。 また、老中阿部伊勢之守正弘の求めにより、「王覇の弁」他の詩文集を貸し出したといわれている。

1853年(嘉永6年)羽倉簡堂や門弟の送別の宴を受けて、江戸を出立。 帰途も尊皇倒幕を説いてまわった。 翌1853年(嘉永7年)5月、幕府は広島浅野藩に黙霖の追補を命じた。 故郷では、母の琴や父の峻嶺が取り調べにあった。 黙霖は幕府の追求を逃れ、山陰地方にあって、尊皇倒幕の啓発にあたっていたと伝えられている。

1855年(安政2年)9月10日、黙霖は長門国萩に土屋蕭海を訪ねた。 妙円寺住職・月性を訪ねる予定だったが、不在のため蕭海宅で帰りを待つようにすすめられ、しばらく滞在することとなる。 ここで、当時幽囚中の吉田寅次郎(松陰)の著した「幽囚録」を見せられ、その尊皇・憂国の情に感激し、面会を望んだ。 しかしながら、幽閉中の身である松陰との面会は許されず、9月12日に松陰宛の手紙と詩数編を送った。 以後、黙霖と松陰との往復書簡は、黙霖から松陰宛12回、松陰から黙霖宛14回、延べ26回に及ぶこととなる。 生涯一度も顔を合わすことはなかったが、この書簡により、その後の松陰の思想に多大な影響を与えたとされている。

この後、月性の私塾・清狂草堂に約3ヶ月滞在した。 12月末、九州再遊のため出立、翌1856年(安政3年)1月九州に入り、肥前佐賀、平戸、肥後熊本などを巡り、各地の志士と交流した。 8月14日、再び萩の土屋蕭海を訪れた黙霖は、前年から中断していた松陰との書簡による尊皇討論を再開した。 この頃の松陰の思想は公武合体論者に近かったと思われるが、これに対し黙霖は急進的な討幕論を罵倒に近い言葉で説いた。 黙霖の思想に啓発された松陰は、以後、尊皇討幕へと転じてゆく。

1858年(安政5年)7月頃、黙霖は備後三原で広島藩に捕らわれ、藩牢に送られたと伝えられている。 出獄は安政の大獄が静まった1860年(万延元年)である。 獄中にいた黙霖は、月性や松陰、そして母の琴の死も知ることができなかった。

1864年(元治元年)12月16日、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、石川小五郎などと長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵した(回天義挙)。 後に奇兵隊ら諸隊も加わり、1865年(元治2年)3月には俗論派の首魁椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握った。 この変事を知った黙霖は、長州に向かい、3月に周防遠崎の妙円寺で月性の墓参をする。 このとき、妙円寺で預かっていた吉田松陰最後の手紙を受け取った。 元号が改まって慶應元年となった4月頃、黙霖は山口に入った。 6月に京都に向かうが、長州藩から何かの密命を受けていたと説がある。 11月には長州へ戻った。

1866年(慶應2年)3月、長州の藩校明倫館の儒員(教師)に推され、社寺管轄を兼ねる役目に就いた。 4月末にはこれらの職を辞して帰郷し、僧籍を退いた。 このとき、母方の宇都宮姓を名乗り、宇都宮真名介雄綱となった。

黙霖は、明倫館の文学寮で、皇室の衰退と幕府の専横を批判した「毛詩和韻」3巻を著していた。 これを興正寺の本寂上人を介して孝明天皇に献上する決意をして出立したが、5月13日に瀬戸島村(現・呉市音戸町)で広島藩に捕縛された。 1867年(慶應3年)の初夏に出獄したが、この間、将軍家茂の死去、慶喜の将軍宣下、孝明天皇の崩御、明治天皇の践祚など歴史は大きく動いていた。 出獄した黙霖は、すぐに京都に向かった。 途中、尾道福善寺の寂円の元を訪れている。 この年10月、大政奉還。

1868年(明治元年)3月、周防国大島郡屋代島久賀(現・山口県周防大島町久賀)の覚法寺に、月性の門弟であった大洲鉄然(おおず・てつねん)を訪ね、清国へ渡航しようとの覚悟を打ち明けた。 理由は「芸州に不平がある」ためとされている。 11月、黙霖は滞在中の荘山田村庄屋の澤原繁太郎(のち為綱)邸において、再び広島藩に捕らわれる。 これは、明治天皇に献上するため、4月に「前表」、5月に「後表」を著したのを咎められたといわれている。

1869年(明治2年)3月6日に出獄した黙霖は、再び尾道福善寺の寂円の元を訪れている。 出獄後、清国渡航の志はますます高まり、1870年(明治3年)長崎まで出向き、在留清国人や長崎奉行にまで相談するが、渡航の許可証がなければ不可能とさとされた。 そこで、1871年(明治4年)上京し、外務省に清国渡航を願い出るが、却下される。

1871年(明治4年)8月、勤王の功により終身3人扶持を与えらた。 また「大阪府貫属」の恩典を授かった。 これは、大阪府管轄の「士族」を意味するもので、黙霖は士族に列せられたことになる。 9月には大阪に移り、入籍手続きを行っている。 1873年(明治6年)2月28日、湊川神社権宮司に任命される。 次いで4月25日、男山八幡宮禰宜に任命されるが、7月25日に罷免された。

1879年(明治12年)頃、帰郷した黙霖は、一時期安芸郡役所に勤めていたようである。 これは旧知の安芸郡長(当時)澤原為綱(ためもと)のすすめによるものらしい。 1882年(明治15年)頃より、故郷長浜の「観海舎」に隠棲し、著述を中心とした生活に入る。 特に大阪在住時から着手した「大蔵経」の和歌訳に励み、全十篇、百八十二巻、創作した和歌三十五万首の大作が完成したのは1886年(明治19年)のことである。  澤原為綱は、邸内に住居を建て黙霖に提供した。 一時は、長浜と荘山田村を行き来していたようだが、1888年(明治21年)頃には澤原邸に住んでいたと考えられている。

1894年(明治27年)9月15日、日清戦争に際し、広島に大本営が置かれた。 11月頃、広島大本営に来広中の総理大臣・伊藤博文に招かれ、広島の長沼旅館で面会している。

1897年(明治30年)6月頃より病に臥せるようになり、9月15日、74年の生涯を終えた。 遺骨は父母の眠る西福寺に納められることとなった。

死後20年を経た、1916年(大正5年)12月28日、維新の功により従五位を贈られた。 また、翌1917年(大正6年)2月15日、西本願寺より、維新勤王の功により、特別賞与第一種と「操心院」の院号を追贈された。

参考資料

  • 大尾博敏.黙霖物語:きさらぎの花は開いて .呉, 宇都宮黙霖研究会 ,1997,171p.(ISBN 4-9900643-6-4)
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