画像をクリックすると拡大表示。 戻るときには表示されたページ下部の「戻る」をクリック。
幕末の僧、思想家である宇都宮黙霖(うつのみや・もくりん)は、ここで誕生した。 父は賀茂郡楢原村(現・東広島市黒瀬町楢原)西福寺住職の三男峻嶺(しゅんれい)、母は長浜の旧家下兼屋宇都宮作兵衛の次女琴である。 峻嶺は石泉塾で勉学中の青年僧であったため、結婚を認められず、琴は姉の嫁ぎ先である住蓮寺で黙霖を出産した。
僧叡(そうえい)は、江戸末期の学僧。 浄土真宗。 姓は河野氏、幼名は左京。 号は石泉、鷹城、未晦庵。 安芸国山県郡戸河内村(現・広島県安芸太田町)の眞教寺、円諦の子として1762年(宝暦12年)に生まれた。 幼くして学を好み、12歳の時には従兄の大瀛(だいえい)に従って、真宗学侶の一派の指導者慧雲(えうえん)のもとで学徳を修めた。
大瀛とともに諸国を遊学した後、高田郡舟木村(現・安芸高田市高宮町船木)専教寺に住し、転じて賀茂郡川尻村(呉市川尻町)光明寺に住した。 しかしながら、学問に没頭したために、法務がおろそかになり、門徒の葬儀にも自ら赴かなかったようである。 このため、門徒との折り合いが悪くなり、寺を出ることになった。 この後、広村の庄屋多賀谷千兵衛が、居宅と書庫を建てて僧叡を招いた。 居宅内に井戸を掘りかけたところ、大きな岩に突き当たり、当惑していた時、岩の下からきれいな水が湧き出してきたことから、この庵を「石泉」と呼んだと伝えられている。