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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

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住蓮寺

幕末の僧、思想家である宇都宮黙霖(うつのみや・もくりん)は、ここで誕生した。 父は賀茂郡楢原村(現・東広島市黒瀬町楢原)西福寺住職の三男峻嶺(しゅんれい)、母は長浜の旧家下兼屋宇都宮作兵衛の次女琴である。 峻嶺は石泉塾で勉学中の青年僧であったため、結婚を認められず、琴は姉の嫁ぎ先である住蓮寺で黙霖を出産した。

住蓮寺

住蓮寺

住蓮寺

住蓮寺

住蓮寺

宇都宮黙霖翁誕生の地:呉市史跡

宇都宮黙霖翁誕生の地碑

宇都宮黙霖翁誕生の地碑

宇都宮黙霖の生涯

専徳寺

宇都宮黙霖は、15才の頃に専徳寺住職・常諦(じょうてい)により、専徳寺に引き取られ、常諦によって大学を初めとする漢学や、国学などを授けられた。 常諦の妻は母・琴の妹テルであり、黙霖にとって義理の叔父にあたる。

専徳寺

専徳寺

専徳寺

石泉文庫及塾・僧叡之墓:広島県史跡

石泉文庫
石泉文庫及塾

僧叡(そうえい)は、江戸末期の学僧。 浄土真宗。 姓は河野氏、幼名は左京。 号は石泉、鷹城、未晦庵。 安芸国山県郡戸河内村(現・広島県安芸太田町)の眞教寺、円諦の子として1762年(宝暦12年)に生まれた。 幼くして学を好み、12歳の時には従兄の大瀛(だいえい)に従って、真宗学侶の一派の指導者慧雲(えうえん)のもとで学徳を修めた。

大瀛とともに諸国を遊学した後、高田郡舟木村(現・安芸高田市高宮町船木)専教寺に住し、転じて賀茂郡川尻村(呉市川尻町)光明寺に住した。 しかしながら、学問に没頭したために、法務がおろそかになり、門徒の葬儀にも自ら赴かなかったようである。 このため、門徒との折り合いが悪くなり、寺を出ることになった。 この後、広村の庄屋多賀谷千兵衛が、居宅と書庫を建てて僧叡を招いた。 居宅内に井戸を掘りかけたところ、大きな岩に突き当たり、当惑していた時、岩の下からきれいな水が湧き出してきたことから、この庵を「石泉」と呼んだと伝えられている。

僧叡之墓
僧叡之墓

地元有志は僧叡のために黄檗(おうばく)版の大蔵経及び書庫(石泉文庫)を寄進した。 これより僧叡は石泉塾を開いて24年間にわたり門弟の教育にあたった。 石泉塾の名簿には110名が記されているが、その中から後に5名も勧学(本願寺の宗学最高の位)を輩出している。 教育とともに数多くの著述を残した僧叡は、1826年(文政9年)73歳で没した。 僧叡没後も、村民は塾の維持保存に努めたので、建物と蔵書は、創設以来の状況を伝えている。

宇都宮黙霖の父峻嶺は、ここ石泉塾で勉学中の青年僧であった。

胡子湯

胡子湯

胡子湯

胡子湯

長浜三丁目

長浜三丁目の気になる建物

長浜三丁目の建物

長浜三丁目の路地

長浜三丁目の路地

長浜三丁目の路地

長浜三丁目の路地

煉瓦塀と古看板

煉瓦塀

古看板

長浜三丁目のトマソン

建物の壁に、隣接していた家屋の跡が残っている。

長浜三丁目のトマソン

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